利休七哲

利休を支えた7人の高弟。利休七哲。

千利休の弟子の中で突出した存在の7人を利休七哲と呼びます。
利休が存命の頃にこう呼ばれていたわけではなく、江戸時代に入ってから呼称されるようになったそうです。
利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した『江岑夏書』(こうしんげがき)の中でこの七人が挙げられています。

それでは、数いる弟子たちの中で、七哲とまで称されるファンタスティックな茶人たちを紹介します。

01

蒲生 氏郷(がもう うじさと)

豊臣秀吉の怒りを受けて千利休が切腹。それによって、千家は存続の危機を迎えました。利休の二人の息子のうちの一人少庵は蒲生氏郷のもとへ預けられます。その後、蒲生氏郷が徳川家康と秀吉へのとりなしに尽力したとされています。
今の茶道があるのは、蒲生氏郷のおかげなのでした!

02

細川 三斎(ほそかわ さんさい)

利休が切腹に追い込まれた時、連座を恐れて彼に誰も近づかないなか、忠興と古田織部だけは、利休を見送りに行っています。2人の姿を見つけた利休は感激し、感謝する礼状をしたためそうです。

03

古田 織部(ふるた おりべ)

千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・ 建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代に もたらしました。茶道の巨人としてこちらの記事でも紹介しました。

04

芝山 監物(しばやま けんもつ)

利休とは懇意であったようで、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られています。現在確認されている利休の書簡のうち監物(宗綱)宛が一番多く、また利休最期の書簡も監物宛だそうです。

05

瀬田 掃部(せた かもん)

出自は不明ながら高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕えたとされます。大きな平高麗茶碗は、後にその名をとって「掃部形」と称されることとなります。また大きな櫂先を持った茶杓を愛用し、「さらし茶巾」と呼ばれる点前を考案したといわれています。

06

高山 右近(たかやま うこん)

茶道を極めた隠れキリシタン。徳川家康により国外追放令を受けた際も、利休は茶の湯の師匠として何回も彼のために茶をもてなし慰めました。その後、内藤如安らと共にマニラに送られます。

07

牧村 兵部(まきむら ひょうぶ)

豊臣秀吉につかえ、騎馬で護衛する馬廻(うままわり)衆の頭でした。高山右近 の影響をうけ、キリシタンとなります。


【まとめ】

以上、「利休七哲」のご紹介でした。この七人の他に、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もあるそうです。また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説ありますが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではないそうです。

それにしても、400年以上の歴史ある茶道で、何千何万と茶人がいる中でのTOP7なわけですから、私のような初心者からすると雲の上の存在であることは間違いないですね。