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その男、天才につき。

本阿弥光悦は、刀剣の鑑定や研磨を稼業とする京都の家に生まれました。刀剣には、金工、漆工、革細工、蒔絵等、様々な工芸技術からなっており、その見識眼が後のマルチクリエイターとしての礎になっていったのだと思います。今日では書家、陶芸家、芸術家として数々の後世に残る作品を生み出しました。

 

略歴

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)

安土桃山・江戸前期の芸術家。京都生。号は太虚庵・自得斎。代々刀剣鑑定・研磨を家職とする。近衛信尹・松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人。家康から与えられた洛北鷹ヶ峰の地で、一族・工匠と共に創作と風雅三昧の生活を送った。寛永14年(1637)歿、80才。

 

それでは、そんな光悦の作品の数々を紹介していきましょう。

 


茶碗


白楽茶碗 銘『不二山』(ふじさん)

白楽茶碗 銘『不二山』(ふじさん)本阿弥光悦作

国宝。国産茶碗で国宝はたったの2点のみ。まさに日本の宝ともいうべき作品です。「雪景色の富士山」と「ふたつとない茶碗」というダブルミーニングで命銘された作品だそうです。
楽焼の2代常慶から指導を受けたそうですが、本家でない外野の人間だからこそ、ここまで自由な作品を残せたのでないでしょうか?
また、共箱に署名を入れることを始めたがこの光悦だそうです。茶碗は芸術作品であるという確信と覚悟がそこにあったのではないでしょうか。

黒楽茶碗 銘「雨雲(あまぐも)」

文化遺産オンラインより引用

黒釉を塗った部分と塗り残した部分のコントラストが生み出す景色がまさに雨雲!微妙に反り返したエッジがかっこいいです。

黒楽茶碗 銘「時雨(しぐれ)」

文化遺産オンラインより引用

腰の丸みと半筒形の胴、薄い黒釉からのぞかせるかせた素地が味わい深く時雨を連想させます。

赤楽茶碗 銘「雪峯(せっぽう)」

http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/より引用

腰から胴にかけてのこの丸みが柔和な印象。稲妻のようだな思ったこの金継は、雪山から溶け出す出す清水をイメージしているそう。

赤楽茶碗 銘「乙御前(おとごぜ)」

http://kizuna-maboroshi.doorblog.jp/より引用

乙御前とは、若く美しい娘と意味だそうです。その名の通り、みずみずしく、ぴちぴちでうららかな印象です。青春の輝きが閉じ込められたような茶碗です。

赤楽茶碗 銘「加賀(かが)」

http://blog.goo.ne.jp/hps_tokyoより引用

腰に角があり、腰回りに白い釉の景色があります。無骨な黒い筋目も印象的です。

赤楽茶碗 銘「熟柿(じゅくし)」

http://blogs.yahoo.co.jp/nyannnyann626/より引用

その名の通りの熟柿。熟れに熟れています。

 


蒔絵工


 

船橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)

船橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)

文化遺産オンラインより引用

国宝です。船橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)という名の通り、硯(すずり)を入れる箱です。お習字箱ですね。なんと言ってもこのフォルムでないでしょうか?蓋がこんもり山形に盛り上がっています。重ねることもできませんし、とてもしまいづらいですよね。それから、この蓋に配された文字。
『後撰和歌集』源等(みなもとのひとし)の歌「東路の佐野の(舟橋)かけてのみ思い渡るを知る人ぞなき」から、「舟橋」の字を省略しています。つまり「舟橋」は箱の意匠から読み取れということです。
光悦自らがどの程度制作に関与したかはあきらかでないそうですが、大胆な意匠、古典文学から主題をとるなど、彼の特色がよく表れた作品といえます。


書跡


『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(つるずしたえわかかん)

『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(つるずしたえわかかん)

この『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(つるずしたえわかかん)は、俵屋宗達との合作です。俵屋宗達といえば琳派を代表する絵師で国宝・風神雷神図でお馴染みでないでしょうか?そんな俵屋宗達が見出したのが実は本阿弥光悦だったのです。
この作品は、宗達に下絵を描き、その上に光悦が三十六歌仙の和歌を乗せるという、二人の天才のコラボ作品なのです。
この鶴だけを配した宗達の絵を受け取ったときの、光悦のよっしゃやったるで的なシーンを想像するだけでゾクゾクしますね。


 

【まとめ】

光悦を語る上で、その作品だけでなく、大事な出来がもうひとつあります。
1615年大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられ、その後、徳川家康より、京都郊外の鷹峯(たかがみね)の地を拝領します(連座させられて追い出されたという説もあります)。光悦は、そこにさまざまな分野の文化人や職人、芸術家たちを集めて、独自の文化村を築きあげました。光悦村と呼ばれています。彼は亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送ったそうです。
やることのスケールがいちいちデカいですよね。ものづくりだけでなく、村づくりからですから。そういう意味では、今日のアートディレクターというよりは、クリエイティブディレクターの走りとも言えるのではないでしょうか?